トラキア旅行記

i miss i-pod ,no music no life  ハンガリー ブダペスト1日目(by kawabekentarouさん)

トラキア
10*21
ハンガリー ブダペスト/夜行列車でハンガリーに着いた!ハンガリーへはオーストリア、クロアチアを通る為、何回もパスポートコントロールがあった。スペインに入国して以来、初めてスタンプを教えもらえた。クロアチアの警官の見た目のいかつかさに少しビビった無事に宿に着き、宿を探そうとしたらピロスカという女性に声をかけられ、ホステルを探すくらいなら、使ってない部屋を貸してあげると言われた。これはプライベートルームってやつだなと思い、いろいろと聞いてみると、駅から5分、風呂とキッチンがあるらしい。風呂~、即決しました。一日20Euroで少し割だかだが、ピロスカも良い人そうだし、ここに決めた!取りあえず、荷物を整理して、バーに行った。昼前なのに皆飲んでるよ!ハンガリーのブダペストはドナウ川を境にブダとペストに別れていて、くさり橋によって結ばれた。いぶし銀のように輝く美しい町並みと雰囲気はパリやウィーンにも似ていなくはない。ブダペストは世界でも有数の温泉都市である。ハンガリーもこれまたオスマン朝占領下であった。なので、建物などイスラム教の影響も少し見受けられたりもする。それにしてもバルカン半島も含め、オスマン朝って凄かったんだな~、日本に帰ったら調べてみよっと。しかし、後にオスマン朝から解放されるが、絶対主義国ハプスブルクの植民地の道を余儀なくされた。あの有名なマリアテレジアの御蔭で、専制絶対主義から、啓蒙絶対主義に代わり、住民の母国語の教育なども奨められたり、ハンガリーの民族意識の覚醒を促すものとなった。なんかオーストリア、チェコにも先に行ったので、歴史が繋がってきて楽しいぞ!バーのあと、取りあえずくさり橋や王宮を見ようと思い向かった。結構迷ったがハンガリー人は皆親切に案内してくれた。良い国やね!くさり橋に向かう途中で少女にくつひもを踏まれほどけた。くつひもを結んでると、その少女は謝ってきて、少し立ち話をした。一見、普通の地味な少女で英語もできた。今日は予定が無いから少しブダペストを案内してくれると言った。俺もその方が楽だと思い言葉に甘えた。それがいけなかった…。音楽の話しになり、日本の音楽を聞きたいと言われ、iPodをしばらく貸した。イヤホンが半分壊れたから買いに行きたいと言ったら、連れてってくれると言われたが、お腹が減ったからマックに行きたいと言われマックにいった。近くにイヤホン売ってるから並んでる間に買ってくるから6000FT貸してと言われた。6000FTも?と怪しいと思いながら素直に渡してしまた…。人を信用しきってしまったのである。20分、30分待っても戻って来ない!やられた!!見事に騙された!派手だったり怪しい人なら警戒したが、くつひもからといい、自然過ぎる!お金はいいけど、iPodが痛い!マックに行く前に返して貰うべきであった!痛すぎるし、つらすぎる。音楽無しの旅は本当に痛い(ノ_・。)俺は出かける時携帯を忘れても気にしないが、iPodをわすれると取りに帰るくらいだ。しかもかなりの動画と曲をダウンロードしてるからマジでショック!今までバッパーの旅で1番落ち込んだ…。音楽を聞きながら旅をするのが好きだし、旅はまだ半分位ある。時間はあったが、何もやる気がおきず、部屋に戻り、全く観光せずに部屋で落ち込んでいた。

ハンガリーについては翌日の日記に載せます


*オスマン朝
トルコ系の帝室オスマン家を皇帝とする多民族帝国で、現在のトルコの都市イスタンブルを首都とし、最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナに至る広大な領域に及んだ(1299年 - 1922年)。アナトリア(小アジア)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパのキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展するが、18世紀頃から衰退してその領土は蚕食されて急速に縮小し、挽回を図り対ロシア攻略を主目的に第一次大戦に参戦、しかし敗戦により帝国は事実上解体。20世紀初頭についに最後まで残っていた領土アナトリアから新しく生まれ出たトルコ民族の国民国家、トルコ共和国に取って代わられた。

歴史
オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖オスマン1世がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる1299年を建国年とするのが通例であり、帝制が廃止されてメフメト6世が廃位された1922年が滅亡年とされる。
もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定することは難しい。
建国と拡大の時代
13世紀末に、東ローマ帝国とルーム・セルジューク朝の国境地帯であったアナトリア西北部にあらわれたトルコ人の遊牧部族長オスマン1世が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、遊牧民の集団であったとする説も根強いが、一般にはオスマンを指導者として結集したムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)たちであったとする説が有力である。彼らオスマン集団は、周辺のキリスト教徒やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展するオスマン君侯国 (Osmanlı Beyliği) を築き上げた。
初期オスマン帝国の騎兵(スィパーヒー)1326年頃オスマンの後を継いだ子のオルハンは、即位と同じ頃に東ローマ帝国の地方都市プロウサ(現在のブルサ)を占領し、さらにマルマラ海を隔ててヨーロッパ大陸を臨むまでに領土を拡大した。ブルサはオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる。
1346年、オルハンは東ローマの共治皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスとの同盟をきっかけにダーダネルス海峡を渡ってバルカン半島のトラキアに進出、ヨーロッパ側での領土拡大を開始した。オルハンの子ムラト1世は、即位するとすぐにコンスタンティノープルとドナウ川流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在のエディルネ)を占領、ここを第二の首都とするとともに、常備歩兵軍イェニチェリを創設するなど国制を整え、1389年にコソヴォの戦いでセルビア王国を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を破った。
ムラトの子バヤズィト1世は、1396年にブルガリア北部におけるニコポリスの戦いでハンガリー王を中心とした十字軍を撃破、領土を大きく広げた。しかし、1402年のアンカラの戦いでティムールに敗れて憤死し、バヤズィトの諸子の間で後継争いが起こって帝国の拡大は一時停滞した。
バヤズィトの子メフメト1世は、1412年に帝国の再統合に成功して失地を回復し、その子ムラト2世は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に1453年、ムラトの子メフメト2世は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略し、ついにビザンツ帝国を滅ぼした(コンスタンティノープルの陥落)。コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった。また、これ以後徐々にギリシア語に由来するイスタンブルという呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった。
オスマン帝国の勢力拡大こうして15世紀末までにバルカンとアナトリアのほぼ全土を平定し、黒海北岸やエーゲ海の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「オスマンの内海」とするに至ったオスマン帝国を1512年に継承した第9代セリム1世は、エジプトのマムルーク朝を滅してイスラム世界における支配領域をアラブ人居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていたイスラム教の二大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握してスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した。このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は19世紀の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである。
オスマン帝国の最盛期
スレイマン1世(在位1520年-1566年)第10代スレイマン1世のとき、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ、北アフリカにまで広がった。
スレイマン1世は即位するとまずベオグラードを征服してハンガリー領に進出し、ロードス島でムスリムに対する海賊行為を行っていた聖ヨハネ騎士団と戦ってこれを駆逐し、東地中海の制海権を握った。1526年にはモハーチの戦いでハンガリー王国を破り、その大半を占領する。さらに東ではサファヴィー朝からイラクのバグダードを奪い、南ではイエメンに出兵してアデンを征服した。
またこれに前後してハプスブルク家と対立していたフランスのフランソワ1世と同盟し、1529年にはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世の都ウィーンを1ヶ月以上にわたって包囲した。第一次ウィーン包囲と呼ばれるこの作戦は失敗に終わったものの、オスマン軍がヨーロッパの奥深くを脅かしたことは西欧諸国に強い衝撃を与えた。さらに、1538年プレヴェザの海戦では、スペインなどの連合艦隊を破り、地中海のほぼ全域を支配下に置くことに成功した。そしてスレイマンはインドネシアのアチェ王国のスルタンであるアラー・ウッディーンの要請に応じて艦隊を派遣した。このとき艦隊はマラッカ海峡まで行ったという。 スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相(首相)が担うようになる。
また、軍事構造の転換によって火砲で武装した歩兵であるイェニチェリを核とする常備軍の重要性が高まり、その人員が爆発的に増大して維持費が軍事費を圧迫し、かわって在地の騎士であるスィパーヒー層が没落していった。それに応じてスィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来のティマール制は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる徴税請負制(イルティザーム制)が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。制度の項で後述する高度な官僚機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。
なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、カピチュレーション(恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での治外法権などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした19世紀には、西欧諸国によるオスマン帝国への内政干渉の足がかりに過ぎなくなり、不平等条約として重くのしかかることになった。
帝国支配の混乱と衰退
レパントの海戦スレイマンの死から5年後の1571年、レパントの海戦でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に敗北し、地中海の覇権を失った。もっとも、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった。帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、1573年にはキプロス島、翌年にはチュニスを獲得した。
しかし、繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。1579年、スレイマン時代から帝国を支えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャが暗殺されて以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに17世紀前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、16世紀末頃から新大陸産の銀の流入による物価の高騰(価格革命)や、連年の戦役による軍事費の増大が財政を苦しめ、さらにアナトリアで民衆反乱が群発するに至り、帝国内は急速に動揺し始める。 そのような情勢の下で1645年に起こったヴェネツィア共和国との戦争は1656年、ヴェネツィア艦隊の海上封鎖を招き、物流が滞って物価が高騰した首都は、暴動と反乱の危険にさらされた。この危機に際して大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメト・パシャは全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝、その死後は息子キョプリュリュ・アフメト・パシャが続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いたキョプリュリュ家の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。先述したオスマン帝国の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国はクレタ島やウクライナにまで領土を拡大し、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。
しかしキョプリュリュ・メフメト・パシャの娘婿カラ・ムスタファ・パシャは功名心から1683年に第二次ウィーン包囲を強行する。一時包囲を成功させるも、ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる欧州諸国の援軍に敗れ、16年間の戦争状態に入る。戦後、1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約において、史上初めてオスマン帝国の領土は削減され、東欧の覇権はハプスブルク家のオーストリアに奪われた。1700年にはロシアとスウェーデンの間で起こった大北方戦争に巻き込まれ、スウェーデン王カール12世の逃亡を受け入れたオスマン帝国は、ピョートル1世の治下で国力の増大著しいロシア帝国との苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、1711年のプルート川の戦いで有利な講和を結ぶことに成功するが、続くオーストリアとの戦争のために、1718年のパッサロヴィッツ条約でセルビアの重要拠点ベオグラードを失う。
アフメト3世の時代(1720年頃)の祝祭の様子。王子の割礼を祝う様子を描く。このように、17世紀末から18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、これを期に西欧技術・文化の吸収を図り、後期のトルコ・イスラム文化が成熟していった時代でもあった。中でもアフメト3世の大宰相イブラヒム・パシャ(在任1718年-1730年)の執政時代に対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼ばれている。しかし、1730年、サファヴィー朝の混乱に乗じて行われたイラン戦役が、ナーディル・シャーの登場でオスマン側に劣勢に動き始めると、浪費政治への不満を募らせていた人々はパトロナ・ハリルの乱を起こして君主と大宰相を交代させるに至り、チューリップ時代は終焉した。
やがて1739年のベオグラード条約でベオグラードを奪還し、1747年にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握したアーヤーンと呼ばれる地方名士が台頭して、彼らの手に支えられた緩やかな経済発展が進んではいた。しかし、産業革命が波及して、急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、スレイマン1世時にヨーロッパ諸国に与えたカピチュレーションを利用して、ヨーロッパはオスマン領土への進出を始めたのであった。
近代化をめざす「瀕死の病人」
18世紀末に入ると、ロシア帝国の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。1774年、キュチュク・カイナルジャ条約によって帝国は黒海の北岸を喪失し、1792年にも再び敗れてロシアのクリミア半島の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感したセリム3世は翌1793年、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「ニザーム・ジェディード」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、廃位された。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。
この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、ギリシャ北部からアルバニアを支配したテペデレンリ・アリー・パシャのように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様で、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な中央集権体制は無実化した。さらに1798年のナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征をきっかけにエジプトの実権を掌握したムハンマド・アリーは、1830年反乱を起こしてエジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。
ギリシャ独立戦争の敗北(ナヴァリノの海戦)一方、フランス革命から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族のナショナリズムを呼び覚まし、ギリシャ独立戦争(1821年 - 1829年)によってギリシャ王国が独立を果たした。これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、19世紀のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を経ていった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を東方問題という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、20世紀初頭にはオスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになる。
オスマン帝国はこのような帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、ヨーロッパから「瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。
しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。1808年に即位したマフムト2世はイェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成し、さらにアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した。さらに1839年、アブデュルメジト1世は、改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャの起草したギュルハネ勅令を発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図るタンジマートを始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった。
1853年にはロシアとの間でクリミア戦争が起こるが、イギリスなどの加担によってきわどく勝利を収めた。このとき、イギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は、1856年に改革勅令を発布して非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した。こうして第二段階に入ったタンジマートは宗教法(シャリーア)と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代教育を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた。
しかし、改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の借款を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したために農業のモノカルチャー化が進んで、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産した。
こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、1876年、大宰相ミドハト・パシャのもとで「アジア最初の成文憲法」と言われるオスマン帝国憲法(通称ミドハト憲法)を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の法治国家であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた。
だが憲法発布から間もない1878年に、オスマン帝国はロシアとの露土戦争に完敗し、帝都イスタンブル西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望むアブデュルハミト2世は、ロシアとはサン・ステファノ条約を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した。これ以降、アブデュルハミト2世による反動専制の時代がはじまるが、この時代は専制の一方で財政破産以降に帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。また西欧の工業製品と競合しない繊維工業などの分野で民族資本が育ち、専制に抵触しない範囲での新聞・雑誌の刊行が拡大されたことは、のちの憲政復活後の民主主義、民族主義の拡大を準備した。
世界大戦から滅亡への道
アブデュルハミトが専制をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは1889年に結成された「統一と進歩委員会」(通称「統一派」)をはじめとする青年トルコ人運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した。
エンヴェル・パシャ
1922年11月、ドルマバフチェ宮殿を後にする、最後の皇帝メフメト6世。この写真が撮られてから数日後、彼は英国の戦艦でサンレモに亡命。1926年に同地で没した。1908年、サロニカ(現在のテッサロニキ)の統一派を中心とするマケドニア駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた(青年トルコ革命)。彼らは1909年には保守派の反革命運動を鎮圧、1913年には自らクーデターを起こし、統一派の中核指導者タラート・パシャ、エンヴェル・パシャらを指導者とする統一派政権を確立した。統一派は次第にトルコ民族主義に傾斜していき、政権を獲得するとトルコ民族資本を保護する政策を取り、カピチュレーションの一方的な廃止を宣言した。
この間にも、サロニカを含むマケドニアとアルバニア、リビアが帝国から失われた。バルカンを喪失した統一派政権は汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗するためドイツに近づき、1914年に始まる第一次世界大戦では同盟国側で参戦した。
この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされ、ガリポリの戦いなどいくつかの重要な防衛線では勝利を収めるものの劣勢は覆すことができなかった。帝国は1918年に降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領された。
敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝メフメト6世は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍がイズミルに上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄ムスタファ・ケマル(ケマル・パシャ)を指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、アンカラにトルコ大国民議会を組織して抵抗政府を結成した。
一方連合国は、1920年、講和条約としてセーヴル条約をメフメト6世に押し付けた。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に分割する内容だったため、ギリシャ軍のアナトリア進攻に正当性を与えたが、かえってトルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約の履行を諦め、新しい講和条約(ローザンヌ条約)の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。1922年、ケマルは、オスマン国家の二重政府の解消を名目として、これを機にスルタンとカリフの職権分離と、スルタン制の廃止を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世はマルタへ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した(トルコ革命)。
翌1923年、大国民議会は共和制を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国に生まれ変わった。トルコ共和国は1924年、スルタン制の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン王権は完全に消滅した。

【旅行時期】2009/10/21~2009/10/21
【エリア】ブダペスト
【テーマ】
【投稿者】kawabekentarou

ヨーグルト、食べ忘れた  ブルガリア ソフィア(by kawabekentarouさん)

トラキア
10*29 ブルガリア ソフィア//
朝8時位にブルガリアのソフィアに着いた 着いた印象は英語の文字が少なく文字が読めないのである。でも親切な人に道を聞いて、市街地に到着。俺が泊まりたかったホステルは潰れていて、もう一つは駅から遠い…。なので、駅近くのホテルに泊まる事にした。今日は泊まるし、昨日みたいにおかしくなりそうにはないだろう(笑)でも、英語でもいいから旅人と話したいよ…。首都ソフィアの印象はトルコ系の人が多い。隣国だし、オスマン朝に支配されていた時もあるから当たり前か。両替は気をつけた方が良い!レートは普通だか、コミッションを結構とられる。俺はいくらかそんした。次は国際キャシュでお金をおろそっと。ブルガリアはオスマン朝からの解放を求める様々な反乱が起きていた。その時ロシアが手助けをして、解放された。だからロシアとは親密で街にはロシア教会もあった。他にもバルカン半島で最も美しいと言われているアレクサンダル・ネフスキー寺院となもいきました。中では写真がとれないけど、巨大なシャンデリアが凄かった。今日初めて気付きました、ずっとシャンゼリアと勘違いしてたよ~、シャイゼリア、これも違う、サイゼリアですな!少し休憩してから、明日のギリシャ行きのチケットを買いに行ったんだけど、これまた字が読めなくて大苦戦しました。キリル文字は全く想像ができないし、あまり英語が使えないので、マジで苦労しました。今日も早めに切り上げて、ビールを飲みながら、日記をつけてます。ぬは、いつのまにか眠ってしまった、起きたら十一時半、寝台車二泊だったから疲れてたんだろう。これも旅してる感じだね。それにしてもヨーロッパの夜はマジで寒い{{(>_


概要
ブルガリアの首都。ヴィトシャ山のふもとに位置し、ブルガリアの政治・経済・文化・教育の中心地である。2008年の人口は1,346,665人[1]である。北緯42度42分、東経23度20分。
ヨーロッパ最古の都市のひとつであり、セルディカ、スレデツ、トリアディツァと呼ばれた。その歴史は7千年以上に及ぶ。有史以前の集落跡が現在のソフィアの中心、王宮の付近や、オベリャ、スラティナなどで見つかっている。トラキア人が、最も重要視していた鉱泉の周囲に町を築いた紀元前7世紀にさかのぼる城壁は良く保存されている。鉱泉は現在も湧水がある。時代の変遷とともに幾らかの異なる名前で呼ばれてきたソフィアの、その数千年にわたる歴史の痕跡の一部は、今日でも見ることができる。

ソフィアには多様なナイトライフの場があり、多種多様なナイトクラブ、ライブハウス、パブ、メハナ(mehana)、レストランなどがある。街では世界的に有名なスターたちのコンサートも開かれ、エルトン・ジョン、デペッシュ・モード、アイアン・メイデン、レイ・チャールズ、Seal、メタリカ、キッス、マリリン・マンソン、エロス・ラマゾッティ、DJ Tiesto、Korn、ジューダス・プリースト、Robin Gibb、カイリー・ミノーグ、リアーナ、ジーマ・ビラーンらがソフィアでコンサートを開いた。

【旅行時期】2009/10/29~2009/10/29
【エリア】ソフィア
【テーマ】
【投稿者】kawabekentarou

沈没して何か?ここの皆が大好きです☆ トルコ イスタンブールその2(by kawabekentarouさん)

トラキア
11*4 トルコ イスタンブール//
今日こそは観光するぞ!って事で早めに起きた~!先ずは朝食を作るぞ!前日にいろいろと食材を買ってたので使い切りたい。昨日checkinした人にも俺の料理を食べてもらいたいと思い、またもボロネーゼを作った。今回は鳥肉と、秀さんがイタリアから持ってきたパスタを使ったので、物凄く美味しく出来上がった。次々と起きてきたので、結局全員分作ったが、皆美味しいよ!って言ってくれて凄く嬉しかった。食べた後はお馴染みの皆でダラダラしたけど、そのダラダラの雰囲気が最高で、この宿の魅力である。最終日だし、観光に行くって言ったら、ヒロ君も今日は行くと言って、一緒に行く事にした。アヤソフィアやブルーモスクに行った。ブルガリアやボスニアでモスクは見たが、流石にイスタンブールのモスクは規模が違く、大きさに驚かされた!しかも、お祈りも終わった時点なので、中にも入れた。本場のモスクが見たくなり、今度はトルコからシリア、イスラエル、イランなど中東を周り、エジプトを目指す旅をすることを心に決めた。ヒロ君が船に乗るということで、俺も船に乗り、対岸に行った。船は大きくカモメ達も寄ってきたり、ガラタ橋も綺麗で満喫できた。その後は皆のお土産をと思い、グランドバザールに向かった。とにかく値切った。たかが六十円といえどもとにかく値切る。お金の問題でなく、トルコ人と値切る交渉をするのが楽しい◎^∇^◎日本語が話せるトルコ人に褒められたりもした。仕入れ値段を教えてくれたり、いろいろと仲良くなれた。また、トルコ人はジョークが大好きで、俺が何も落としてないのに、『落ちましたよ~』っていってきて、俺が下を向くと『ひっかかった~』とか言ってたり、本当に楽しい!買い物、沢山しちゃった~♪///食材やビールを買い宿に戻った。今日は鍋パーティーをやろうということで、秀さんやみきさんに習いながらお米を炊いたり、鰯をミンチして団子を作ったり、白菜等をいれ、本格的な鍋が完成した!秀さんは料理のエキスパートで、ダシやドレッシングの作り方など丁寧に教えてくれた。本当に楽しいのら~♪食後はお決まりの飲み会!岡部さんと管理人の美帆さんと下ネタで熱く語ったり、しょうちゃんとは真面目な話ししたり、俺はここにいる人達をファミリーの様に感じた!美帆さんは一個上のお姉ちゃんみたいに、俺を弟の様に可愛がってくれたりして、今日は最後だからと言って、ワインを買ってくれたり、いつかカナダでHOSTELを一緒に開く事を約束した!ひろくんや、いっちゃん、なおちゃんともとにかく語った!俺の出発が夜明けだから、皆眠いはずなのに、夜通し付き合ってくれた。俺は何て幸せなんだ!何泊かしたけど、こんな送迎されてる人はいなかった。だから俺は本当に皆と仲良くなれたんだ!旅をして、1番嬉しい日になった!美穂さんにお別れの挨拶をいえなかったのが残念だ。でも、カナダで再会できますように!!


トルコについて
西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ。北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシアと、東でグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと接する。国土の大半の部分はアナトリア半島にあたり、国民の約99%がイスラム教(宗派はスンナ派が多数)を信仰するため、日本の地域区分では地理的な位置と、欧州即ちキリスト教というステレオタイプから中東、西アジアに含めることがほとんどであるが、サッカー協会やオリンピック委員会などではヨーロッパの統一団体に属す。経済的、政治的にもヨーロッパの一員として扱われることがあり、NATOに加盟しており、現在欧州連合 (EU) へ加盟申請中である。

歴史
トルコの国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)とトルコ最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブルは、古代からヒッタイト・フリュギア・リディア・ビザンツ帝国などさまざまな民族・文明が栄えた地である。11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族とが対立・混交しつつ次第に定着していった。彼らが打ち立てた群小トルコ系君侯国のひとつから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブルを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。19世紀になると、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地では、ナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立してゆき、帝国は第一次世界大戦の敗北により完全に解体された。しかしこのとき、戦勝国の占領を嫌ったトルコ人たちはアンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)のもとに結集して戦い、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取った。1923年、アンカラ政権は共和制を宣言。翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブルから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国した。第二次世界大戦後、ソ連に南接するトルコは、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、NATO、OECDに加盟する。国父アタテュルク以来、トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化を邁進してきた(ヨーロッパ評議会への加盟、死刑制度の廃止など)が、その最終目標であるEUへの加盟にはクルド問題やキプロス問題、アルメニア人虐殺問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが大きな障害となっている。

【旅行時期】2009/11/04~2009/11/04
【エリア】イスタンブール
【テーマ】
【投稿者】kawabekentarou

スロヴァキア,ブルガリア旅行16-Plovdiv旧市街(by SUOMITAさん)

トラキア
Koprivshtitsaから小さな道をついでPlovdivに.すでに1415.旧市内入口のHotel Seven Hillsにて昼食.豚のステーキおいしかった.それから旧市内に.人口38万人の第二の都市.紀元前19世紀にはトラキア人の集落があったと,マケドニア,ローマ,ブルガリア帝国,オスマンと悠久の歴史がある.旧市内は3つの丘(ローマ時代はトリモンティウム)と呼ばれていたようだ.ローマの円形劇場跡から民族復興期の屋敷まで,城壁の中の美しい街並みが印象的だった,またメインストリートのにぎやかさも西欧にひけをとらなかった.盆地で暑いところだがソフィアからの交通も便利なので,寄ってみるといい都市だ.本来はここで私だけ列車でSofiaに帰る予定になっていたが,急にバチコヴォ修道院を見学することになり,1645車で出発

【旅行時期】2009/08/16~2009/08/16
【エリア】プロブディフ
【テーマ】ドライブ
【投稿者】SUOMITA

2008年ブルガリア旅行第12日目ソフィア(2):さすが首都らしき風格を感じた街歩き(by まみさん)

トラキア
2008/07/17木 ソフィアへ移動
【宿泊:Hotel Slavyanska Beseda(ソフィア泊)】
・市民庭園
・聖ゲオルギ教会(入れず)
・聖ネデリャ教会
・大統領官邸前を通り過ぎて、セルディカ遺跡のある地下道を通り
・国立美術館
(一番楽しみにしていた民俗博物館は改装中で閉館(泣))
・シティ・アート・ギャラリーの画家の肖像展
・大統領官邸前の衛兵交代式
・聖ニコライ・ロシア教会
・アレクサンダル・ネフスキー寺院
夕食のあと国立オペラ座の前を通ってホテルに戻る

ちょっぴりエキゾチズムを感じるけれど、ばっちり近代西欧の洗礼を受けた都会の街並み。
ブルガリアの首都ソフィアも、セントラルという限られた範囲だけなら、共産主義時代の無味乾燥な建築群の影響も少ないです。

いつもなら、新しい国にはまず首都から馴染みになっていくのですが、今回の旅行では、前半、観光初日から現地ガイドと車で地方を回ったため、旅の終わりに近づいて首都一人歩きで、やっとしっくり来たかんじです。

首都の楽しみは、重厚な建物やクラシカルな建物、半端でない規模の建物など。
そこには国の威信と顔となる都市らしさが感じられます。

そしてなんといってもミュージーアム!
私にとっての東欧旅行の醍醐味の1つはフォークロア文化です。
そういう文化を育んだ豊かな土壌と名残りは、いまでは首都でなく地方に残っていることが多いといっても、めぼしい出土品や作品は、やっぱり首都の博物館に集まることが多いように思います。

ところが、一番楽しみにしていたソフィアの民俗博物館は、修復中で閉鎖!
がぁぁっかり。
隣の国立美術館は思ったより良かったですし、お土産探しに良いという併設のギフトショップは営業していましたけどね。

「ソフィアの人口は約112万人。古代トラキア人がバルカン半島に移り住んで以来、約3000年の歴史のある、欧州でも最古の都市の一つだ。紀元前には『セルディカ』と呼ばれ、黒海とアドリア海に挟まれた交通の要として、公益で栄えた。しかし、他国の支配を受け続け、中でもオスマントルコの支配は14世紀から19世紀にかけて、500年間続く。
 その後、民族復興運動が起こり、独立を果たすが、実際はロシアの支配下も同然だった。だが社会主義崩壊を経て、ついに1900年、現在のブルガリア共和国が誕生する。」
(「東欧の郷愁」(菊間潤吾・編/新潮社)より)

※この旅行記では、ソフィアでの教会以外の写真を集めました。
教会の写真は次の「ソフィア(3):古代・中世・近代の香りの教会群」にて。

【旅行時期】2008/07/17~2008/07/17
【エリア】ソフィア
【テーマ】
【投稿者】まみ

トラキアの画像